第178回学習会報告

第21章 蓄積と拡大再生産(3回目)

8月29日、第2期178回目の学習会を行ないました。

 今回は、現行版の第1節「部門Ⅰでの蓄積」の途中からでした。現行版の第2節「部門Ⅱでの蓄積」まで終えたかったのですが、時間切れで少し残してしまいました。以下はその報告です。

*以下の引用はすべて草稿からです。どこからの引用なのか分かるよう、MEW(ヴェルケ)版(大月書店刊マルエン全集)の原書頁を記しました。

第1節 部門Ⅰでの蓄積

 2 追加不変資本(現行版の見出し)の続き

部門Ⅰには、もっぱら貨幣蓄蔵に励んで現実の蓄積に備えているA群の資本家たちと、積み立ててきた貨幣で追加的諸要素を購買し現実の蓄積に入ろうとするB群の資本家たちがいること、A群の資本家たちが販売する生産手段をB群の資本家たちが購買する、という関係にあることが明らかになりました(「部類」と呼んでいましたが、「群」に変えます)。前回はA群の資本家たちの事情――彼らの剰余生産物の素材形態は部門Ⅰ用の生産手段であること等――を見ましたが、これに対するB群の資本家たちの事情はどうでしょうか? マルクスは二点指摘しています。

事情⑴ のA、A、A"等々の剰余生産物は、実際にB群の資本家たちの手によって追加不変資本として機能するということ。

事情⑵ この剰余生産物が彼らの手に入ってくるためには流通行為が必要なのであって、彼らはこの剰余生産物を買わなければならないということ。

(1)A群の剰余生産物は翌年B群の資本家たちのもとで機能する

マルクスは、事情⑴について注意を促しています。

のA等々によって生産される剰余生産物(潜勢的追加不変資本)の一大部分は、今年(in diesem Yahr)生産されても来年(im nähsten Yahr)(またはもっとあとで)はじめて実際にのB等々の手で産業資本として機能することができる、ということである」(494-495頁)

 in diesem Yahrを「この年」、im nähsten Yahrを「翌年」というように訳しても構いません。例えば今年(この年)を2019年とすると、2020年が来年(翌年)になります。これに当てはめると、A群の資本家たちが2019年に生産した剰余生産物である生産手段を、B群の資本家たちが翌年の2020年に生産的に消費するということになります。BがAから買う時点は2019年末でも2020年初めでも、あるいは2020年の一年間を通してでも構いません。BはAの前年の生産物を今年(「またはもっとあとで」とあるのは、機械などの固定資本が想定されているからだと思われます)の生産過程で機能させるということが肝心です。これはこれまでの場合と基本的に同じです。

(2)B群の資本家たちの態様を吟味する

 ここでB群の資本家たちの態様について、レポーターは次のような疑問を提出しました。

 <剰余生産物を販売しても購買しないというA群の資本家は想定できるが、もっぱら購買するだけで販売しないB群の資本家というのはなかなか想像できない。というのは彼らは生産者なのであって、彼らは積み立ててきた貨幣資本を支出してA群の資本家たちの生産物を購買するだけでなく自分たちの剰余生産物を販売するのではないか、つまり彼らはB群であると同時にA群の資本家ではないのか。>

 学習会では、この疑問に対して明確な結論を出すまでには至らなかったのですが、ここでは出された意見も踏まえて筆者の私見を述べてみたいと思います。実は、この疑問を提出したのは、今回のレポーターを担った筆者でした。

マルクスは、この二種類の資本家たちについて、次のように述べていました。

は貨幣――剰余価値にかかわる――を(積み立てるために)流通から引き上げるのに、他方で彼は、商品を流通に投げ入れておきながらそれに代わる別の商品を流通から引き上げないのであって、このことによってB、B'等々のほうでは、貨幣を流通に投げ入れてその代わりにただ商品だけを流通から引き上げることができるようになるのである」(原書489頁。アンダーラインは引用者)

 A群、B群というのは、一方の資本家たちの剰余生産物――ここではAたちの剰余生産物――をめぐる資本家たちの区分です。A群の資本家たちは剰余生産物を販売するだけで別の商品を購買しないことによって新たな追加的貨幣資本を形成するのですが、それはB群の資本家たちはこれを一方的に購買することによって可能となります。繰り返しますが、忘れてならないのは、問題になっているのはあくまでもA群の資本家たちの剰余生産物だということです。B群の資本家たちの剰余生産物は問題になっていません。B群の資本家たちも剰余生産物を生産していて、彼らはそれを販売しなければならないというのは確かです。少し先でマルクスは次のように書いています。

「さまざまな立場にあるIのB、B'、B"等々の潜勢的な新貨幣資本が能動的な貨幣資本として働き始めると、彼らが彼らの生産物(彼らの剰余生産物の諸部分)を互いに買い合いまた売り合わなければならないこともありうる。そのかぎりでは、剰余生産物の流通に前貸された貨幣は――正常な経過の場合には――、さまざまな立場にあるⅠのBたちがそのような貨幣を各自の商品の流通のために前貸したのと同じ割合で、彼らのもとに還流する」(496頁)

 見られるようにマルクスは、ⅠのB群の資本家たちは剰余生産物を持っていて、これを彼らのあいだで売り合い買い合うとしています。

 B群の資本家たちの剰余生産物を購買するのはA群の資本家たちではありません。彼らは剰余生産物を販売したあと別の商品を購買しないとされていることからも明らかです。B群の資本家たちは自分たちの剰余生産物を相互に売り買いする以外ありません。したがって、彼らが剰余生産物の流通のために前貸しした貨幣は、流通の結果、前貸ししたもののもとに還流します。

 だからレポーターの、B群の資本家たちも剰余生産物を販売するのではないかという疑問は正しかったのですが、彼らはB群だけでなく同時にA群ではないか、というのは正しくありませんでした。A群の資本家たちの剰余生産物の転態においてはB群の資本家たちはA群の資本家を兼ねることはできないからです。B群の資本家たち自身の剰余生産物については、彼らはA群・B群のどちらでもないことになります。

(3)B群の資本家たちがA群の資本家たちから購買する貨幣はどこからやってくるか?

 事情⑵について。B群の資本家たちはA群の資本家たちの剰余生産物を流通から買い入れるわけですが、そこでマルクスは「この流通過程のために必要な貨幣はどこからやってくるのか?」(495頁)と問うています。

 B群の資本家たちがA群の資本家たちから買うのは、「蓄蔵貨幣として積み立てられた彼らのたんに潜勢的な追加貨幣資本がいよいよ実際に〔efective〕追加貨幣資本として機能するという目標点に達した」(同前)からです。

「しかし、これでは、ただぐるぐる回りをしているだけである。いま、ⅠのAたちが貨幣を流通から引き上げ、その代わりに諸商品を流通に投げ入れるIのBたちがまずもってそれを行ない(そのときは、彼らはAであった―引用者)、今度は彼らが、貨幣を流通に投げ入れて、彼らの商品を引き上げる。これではわれわれは、ただ、ⅠのBたちが以前に引き上げた貨幣がどこからやってくるのか、という問題にたちいたるだけである」(同前)

 結局のところ、B群の資本家たちが流通に投げ入れる貨幣は、その前に彼らが流通から引き上げた貨幣なのであり、流通のための貨幣がどこからやってくるかという最初の問題に立ち戻っているだけだと言うのです。

 ここで出された「この流通過程のために必要な貨幣はどこからやってくるのか?」という問題は、先の「外観上の困難」と同じなのかとの疑問が出されました。この問いに答えるために、「外観上の困難」についていま一度振り返ってみることにしましょう。

「外観上の困難」とは、蓄蔵貨幣の形成(「商品を売ってもそのあとで買わない」)が一般的に行なわれるものすると、すなわち流通過程が直接的に進行するものと考えると、買い手がどこからやってくるかわからないように見える、というというものでした。

 A群、B群という二つの部類の資本家群が存在するということは、すべての個別資本が蓄蔵貨幣の形成という一方的な操作をしている訳ではないこと、「外観上の困難」というのは、あり得ない想定によって生じた困難でしかないこと、つまりこのような困難はこの場合は存在しないこと、そしてまた貨幣が彼らの間を行ったり来たりするということは、彼らの取引を媒介する貨幣がすでに社会に存在していること、を教えています。

「われわれがすでに単純再生産の考察から知っているように、との資本家たちの剰余価値(ないし剰余生産物)を転換するためには、彼らの手のなかに、ある量の貨幣がなければならない。以前の場合には、収入への支出、消費手段への支出に役だっただけの貨幣が、資本家たちが各自の商品の転換のために前貸した度合いに応じて、彼らのもとに帰ってきた。今度も同じ貨幣がふたたび現われるのであるが、しかし今度はその機能が違っている。ⅠのAたちとたちは、剰余生産物を追加的な潜勢的貨幣資本に転化するための貨幣を代わるがわる供給しあうのであり、また、新たに形成された貨幣資本を購買手段として代わるがわる流通に投げ返すのである」(同前)

「ここで前提されているただ一つのことは、国内に存在する貨幣量だけで(通流速度、等々が前提されているものとして)貨幣蓄蔵のためにも実際の流通のためにも十分だということである、――これは、すでに見たような、単純な商品流通の場合にも満たされていなければならない前提と同じものである。ここで違っているのは蓄蔵貨幣の機能だけである」(同前)

このあとマルクスは、「現存貨幣量が以前よりも大きくなければならない」とし、理由を4点挙げています(その内容は本文参照のこと)。要するに、貨幣量はどんな形態の流通であれ流通量の増大を反映するのです。

 

3 追加可変資本

 エンゲルスはここに「3 追加可変資本」という見出しを付けています。マルクス自身、「これまでは追加不変資本だけを問題にしてきたので、今度は追加可変資本の考察に転じなければならない」(496頁)と書いているので、問題はないでしょう。可変資本とあるので、消費手段を生産する部門Ⅱとの関係が生じるのですが、あくまでも部門Ⅰ内での蓄積がテーマであることを忘れてはなりません。

1)追加の労働力について

 剰余生産物を販売して得た貨幣が可変資本に転化するということは、より多くの労働を流動させることを意味します。マルクスは、労働者数を増やさなくてもそれが可能な場合があるが、ここではこういったケースを除くとしています。そして「新たに形成された貨幣資本のうち可変資本に転化できる部分はそれが転化するべき労働力をつねに見いだすことができる、と仮定」(同前)して考察するとしています。だから追加の労働力の入手可能性という問題は視野の外におかれます。

2)金生産部門の蓄積の特殊性

 ここに突然、金生産者が出て来ます。「金生産者は自分の金のかたちでの剰余価値の一部分を潜勢的な貨幣資本として蓄積することができる。それが必要な大きさに達すれば、彼はそれを直接に可変資本に転換することができる(これにたいして他の生産者たちはその前に自分の剰余生産物を売らなければならない)のであり、同様にそれを直接に不変資本の諸要素に転換することもできる」(497)と。

 なぜここに金生産者が出てくるのかというと、マルクスが、金生産部門を部門Ⅰに含めたことと関係があるように思われます。部門Ⅰでの蓄積を扱う以上、同じ部門の金生産部門の特殊性について触れておく必要があると考えたのではないか、と。この観測が当たっているかどうかはさておき、金生産部門の特殊性は自らの生産物がそのまま貨幣として通用することです。だから金生産者は、他の生産者のように剰余生産物を販売することなく潜勢的な貨幣資本として積み立て、それが目標額に達すれば直接に可変資本に(不変資本にも)転化することが出来るのです。

 追加可変資本についての叙述はこれで終わっています。いかにも中途半端で物足りない感じがします。これも勝手な推測ですが、部門Ⅰでの蓄積であっても剰余価値の追加可変資本への転化ということになると、追加労働力のための消費手段(生活手段)の再生産という問題が出てくるのであって、そうなると部門Ⅰの枠組では収まらなくなってしまいます。そういうこともあって、この程度に抑えられているように感じられます。

 

第2節 部門Ⅱでの蓄積

 現行版は、ここに「第2節 部門Ⅱでの蓄積」というタイトルが付いています。しかし草稿のこの部分にはこのようなタイトルはなく、区分を表わす「4)」が付番されているだけです。エンゲルスが見なしたように、ここからテーマが部門Ⅱでの蓄積に移るというのは本当でしょうか。ところが、草稿ではもう少し先の「5)」と付番されたところに(499頁)、「部門〔Klasse〕Ⅱでの蓄積」というタイトルが付いているのです(エンゲルスはこのタイトルを削って「次に部門Ⅱでの蓄積をもう少し詳しく考察してみよう」と書き加えています)。これは、エンゲルスが、内容的にはその前(区分4))から部門Ⅱでの蓄積に移っていると判断したからですが、部門Ⅱが絡んでくるとしても部門Ⅰでの蓄積に留まっているように感じられます。具体的に追ってみることにしましょう。

(1)部門ⅠのAが剰余生産物を部門ⅡのBへの一方的販売によって蓄蔵貨幣を形成する場合

 マルクスは別のケースを持ち出します。

 「これまでわれわれは、のA、A’、A"等々が彼らの剰余生産物を、B'、B"等々に売ることを前提してきた。しかし、ⅠのAたちが、Ⅱのたちへの販売によって自分の剰余生産物を貨幣化する、と仮定しよう。このことはただⅠのAたちがⅡのBたちに生産手段を売るが、そのあとで消費手段を買わない、ということによってのみ、つまりたちのほうからの一方的な販売によってのみ行なわれうる」(497頁)

 Aの資本家たちは剰余生産物をⅡのBに売ったあと直ぐに消費手段を買わないとあるので、彼らの剰余生産物は自分たちの将来の消費元本であって蓄積元本ではないということになります。しかしⅠのAが消費手段を買わないのは潜勢的追加貨幣資本の形成のため(つまり蓄積のため)だというのです。なんでマルクスはこのような一見すると矛盾するような想定をしたのでしょうか? マルクスの意図は何なのでしょうか?

筆者(リポーター)は、「ⅠのAたちがⅡのBたちに生産手段を売るが、そのあとで消費手段を買わない」というその消費手段は、彼らが雇用する追加労働力(労働者)用の消費手段だと判断し、Aたちが蓄蔵貨幣を形成するのは追加可変資本に転化するためだとレジュメに書いたのですが、どうやらそうではなさそうです。マルクスの意図は、ⅠのAがⅡのBの消費手段を購買しないという想定では正常な再生産さえ不可能になることを明らかにすることにあるではないかと思い直した次第です。

 Aは剰余生産物を一方的に販売するだけでそのあと消費手段を買わないことによって貨幣を溜め込むというのですが、彼らはなぜこのように振舞うのでしょうか? 高額な消費手段があってそれを購買できる額に達するまで貨幣を溜め込むということが考えられますが、もしかするとこれを蓄積に回すことがあり得ます。しかしマルクスはAの貨幣蓄蔵の意図を説明していません。Aの剰余生産物を販売してもⅡから買わないことがどういう影響をもたらすかを問題にしているようなのです。具体的に記述を追って見ましょう。

 焦点に当てられるのはAではなくBのほうです。

「(剰余生産物の一方的販売によって)ⅠのAたちのほうではたしかに潜勢的追加貨幣資本の形成が行なわれるが、しかし他方ではⅡのBたちの不変資本のうち価値の大きさから見てそれに等しい一部分が、不変資本(生産資本の不変部分)の現物形態に転換されることができないまま、商品資本の形態で動きがとれなくなっているわけである。換言すれば、Bたちの商品の一部分が――そして、一見して明らかに〔prima facie〕、この部分が売れなければBは自分の不変資本を全部は生産的形態に再転化させることができないのに――売れなくなったのであり、それゆえまた、Bたちに関しては過剰生産が生じるのであって、この過剰生産は同じくBたちに関しては「再生産」を――不変な規模での再生産でさえも――妨げるのである](497-498頁)。

 結局のところ、このケースは「社会的総再生産――それは資本家IをもⅡをも一様に含んでいる――に目を向けるならば、ⅠのAたちの剰余生産物が潜勢的貨幣資本に転化するということは、価値の大きさから見てそれに等しい商品資本(ⅡのBたちの)が生産資本(不変資本)に再転化できないということを表現している。つまり、拡大された規模での生産を潜勢的に表現しているのではなく、単純再生産の阻害を、それゆえ単純再生産における不足を表現している」(498頁)ことになります。

(2)資本主義的蓄積は消費を犠牲にして行なわれるのではない

 この考察のあと、マルクスは「単純再生産の叙述では、全剰余価値(ⅠおよびⅡ)が収入として支出されることが前提されていた。しかし実際には、収入として支出されるのは剰余価値の一部分であって、他の部分は資本に転化するのである。現実の蓄積はこの前提のもとでのみ行なわれる。蓄積は消費を犠牲にして行なわれるのだ、というのは――このように一般的に言うのであれば――それ自身、資本主義的生産の本質に矛盾する幻想である」(499頁)と述べています。このような記述がここにあるのは、上記のケースはこうした幻想を反駁する実例になると考えたからのように思われます。いやむしろ、この幻想を打ち破るために、このケースを出したとも言えます。このケースでは、Aの資本家たちはまさに当面の消費を犠牲にしていますが、そのことによって単純再生産すら成り立たなくなってしまいます。「蓄積は消費を犠牲にして行なわれる」ことではないことを教えています。「資本主義的生産の目的および推進的動機は消費であって、剰余価値の獲得と資本化すなわち蓄積ではない」というのは資本主義的生産にたいする幻想です。現実はその逆です。

 時間切れのため、第2節(現行版)の途中で終わってしまいましたが、草稿上は、ちょうど区切りの良い区分4)まで進んだことになります。次回は9月26日です。現行版の原書499頁、仕切り線のあとの「次に部門Ⅱでの蓄積をもう少し詳しく考察してみよう」(草稿では区分5)の冒頭)から第3節「蓄積の表式的叙述」の「第1例」の手前まで進みたいと思います。

 (雅)

学習会の日程

当面の学習会は次のとおりです。奮ってご参加ください。

◎第1巻学習会

【日時】9月12日(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第9章「剰余価値率と剰余価値量」・第10章「相対的剰余価値の概念」

◎第2期(第2巻実施中)第179回学習会

【日時】9月26日(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第21章「蓄積と拡大再生産」第2節「部門Ⅱでの蓄積」の途中から第3節「蓄積の表式的叙述」の「第1例」の手前まで
*両日とも正面奥の「会議室」です。会場費300円です。マスクを各自持参されるようお願いします。