第176回学習会報告

6月27日、第2期176回目の学習会を実施しました。コロナ禍のため会場利用ができなくなり、緊急事態宣言が解かれてようやく会場が使用できるようになった次第です。なんと3か月ぶりの学習会です。とはいえ、ウィルス感染の危険がなくなったわけではなく、マスクの着用、対人距離の確保、消毒の徹底等の対策を取ったうえで運営しなければなりません。少々面倒ですが、やむを得ません。

 さて第2巻(第2部)もやっと最後の章に到達しました。第21章「蓄積と拡大再生産」です。かなりの難物です。心して読み進めましょう。

第21章 蓄積と拡大再生産

1 全体の構成

  草稿(第8草稿)と現行版(エンゲルス版)とを比較してみたいと思います。表のとおりです。

草稿(第8草稿)

現行版(エンゲルス版)

先取り。Ⅱ)蓄積、または、拡大された規模での生産

第21章 蓄積と拡大再生産

1)(題なし)

(前文)

 

2)(題なし)

3)(題なし)

 

 

第1節 部門Ⅰでの蓄積

 1 貨幣蓄蔵

 2 追加不変資本

 3 追加可変資本

4)(題なし)

第2節 部門Ⅱでの蓄積

 

 

5)部門Ⅱでの蓄積。

a)(題なし)

 

b)(題なし)

  ――――

 

第3節 蓄積の表式的叙述

 

 

1 第1例

2 第2

3 蓄積が行なわれる場合のⅡcの転換

第4節 補遺

 草稿には区分番号が振られていますが、5)を除いてタイトルが付いていません。エンゲルスは、これを節に分け、さらに小項目に分けています。しかし、もしそれが不十分もしくは不適切なら逆に正確な理解を妨げることになりかねません。事実、エンゲルスの編集には草稿の区分とはいくらかズレがあります。勿論、草稿である以上、マルクス自身が付けた区分を絶対化することもできません。そんなことですので、必要であれば両者を比較するなどして慎重に読み進めたいと思います。
2 標題について

 (1)「先取り」とは?

  上記表のとおり、草稿の標題は「先取り。Ⅱ)蓄積、または、拡大された規模での生産」です。先頭の「先取り」の意味は何なのでしょうか? 草稿を訳した大谷禎之介氏は、これはマルクスがページを飛ばしてしまったことによるメモ書きであると注記しています。これには異なる意見があります(その代表的なものは早坂啓造氏のもの)。その意見は、おおよそ次のようなものです。

 <マルクスは、第2草稿で貨幣流通なしの叙述と貨幣流通を媒介した叙述という二段階の叙述方法を採用した。これに対し第8草稿では後者の貨幣流通を媒介した叙述だけが行なわれている。それは二段階の叙述を放棄したことを意味しない。貨幣流通なしの叙述に先行して貨幣流通を媒介した叙述をするという意味でマルクスは「先取り」と書いた

 マルクスは「先取り」の意味を語っていないため、意見は対立したままです。ここでは紹介するだけにします。

(2)エンゲルスによる標題の微妙な修正

 草稿の標題は「蓄積、または(oder)、拡大された規模での生産」ですが、現行版は「蓄積と(und)拡大再生産」です。エンゲルスは、「蓄積」と「拡大された規模での生産(拡大再生産)」との間に挟まれた接続詞をoderからundに変えています。草稿では「蓄積」と「拡大された規模での生産(拡大再生産)」とがイコールだということになるのに対し(oderは「すなわち」という意味があります)、現行版ではそのニュアンスが失われています。エンゲルスはなぜこのように修正したのでしょうか? 資本の蓄積とは剰余価値を資本に(再)転化することですが、蓄積によらないでも生産を拡大し得ることから、彼は標題を修正したのだと推測できるのですが、マルクスは資本の蓄積、すなわち剰余価値の資本への転化による拡大再生産を考察しようとしているのであり、したがってエンゲルスの修正は適切ではない、とレポーターは報告しました。

 前 文

 これから本文に入ります。現行版は、第1節に入る前にタイトルのない部分があります。7パラグラフ分の量で、草稿の1)と2)に当たり、この2つの区分が前文に相当します。まず1)ですが、(1)個別資本の蓄積と社会的総資本の蓄積とはどういう関係にあるか、(2)現実の蓄積のための貨幣蓄蔵は、再生産の要素か、追加の(新たな)社会的富か、という点が論考されます。

 (1)個別資本の蓄積と社会的総資本の蓄積とはどういう関係にあるか? 

 冒頭の文章を引用します(以下、引用は草稿から行うこととします。ただし頁は現行のMEW版のもの)。

「第1巻では、蓄積が個々の資本家については次のように現われることを明らかにした。すなわち、彼の商品資本を貨幣化するさいに彼はこの商品資本のうち剰余価値を表示する(つまり剰余生産物によって担われている)部分をそれによって貨幣に転化させるが、それを彼はふたたび彼の生産資本の現物諸要素に再転化させるというように現われるということ、つまり実際には、現実の蓄積イコール拡大された規模での再生産、ということである。しかし、個別資本の場合に現われることは年間再生産(年間の社会的再生産――引用者)でも現われざるをえないのであって、それは、われわれが単純再生産の考察で見たように、――個別資本の場合に―一それの固定成分が積み立てられた貨幣として次々に沈澱していくということが年間の社会的再生産でも現われるのとまったく同じである」(485頁)

 コメントは特に必要ないでしょう。まず個別資本における蓄積の進行が描かれていますが、それは年間の社会的再生産においても同じように現われるということです。エンゲルスはアンダーライン部分を削除してしまいましたが、適切ではありません(標題の修正に関連)。

(2)まず不変資本の蓄積(剰余価値の追加の不変資本への転化)に焦点が絞られる

 個別資本家の場合、蓄積はどのように現われるでしょうか。彼は生産物(商品資本)を販売して貨幣を得ますが、そのうち剰余価値分の貨幣を生産資本の諸要素(追加の生産手段と労働力)に(再)転化します。これが剰余価値の資本への充用すなわち資本の蓄積です。マルクスは、この個別資本の場合に現われることが年間の社会的再生産においても現われると言います。でも、まったく同じでしょうか? それが問題です。

ある個別資本が登場します。この資本の年間商品生産物の価値は600で、その価値構成は400+100+100mです。それが販売されます。すると、「600が貨幣に転化され、そのうちの400cはふたたび前貸不変資本の現物形態に、100vは労働力に転換され、そして――蓄積の場合には(蓄積だけが行なわれるものとすれば)、100mがそれに加えられる。それは商品形態から貨幣形態に転換されたことによって、さらに生産資本の現物諸要素への転換によって追加不変資本に転化させられる」とあります。

剰余価値のすべてが蓄積される(収入には転化しない)ものと仮定され、しかも追加的不変資本だけに転換(転化)されるとあります。剰余価値の全部が資本に、そしてこの追加資本が生産手段にのみ転換するということは現実にはあり得ないのに、マルクスが一面的とも言えるこのような仮定をしたのはどうしてでしょうか? 

これは、これから考察しようとしている問題が不変資本の蓄積(剰余価値の追加の不変資本への転化)であるということと関連しているからだと言えます。他の要素への転化を捨象することによって、問題が明確になるのだと思います(このマルクスのやり方には批判があるとの指摘がありました)。

 これから100mの不変資本への転換を具体的に見て行くわけですが、その際の前提条件が2点挙げられています。

第1点は、100mという年剰余価値の額についてで、「この額で十分」だという前提です。それは「機能している不変資本の拡張のため」や「新たな産業的事業創設のため」に貨幣形態で積立てられるのですが、技術的諸条件によっては一年以上の年数をかけて積み立てられることになります。

第2点は、貨幣が転換する生産要素(ここでは生産諸手段)に関することで、マルクスは「拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始まっているということが前提されている」としています。なぜなら、積み立てられた貨幣が生産資本の諸要素に再転化されるためにはこれらの諸要素が市場で買えるようになっていること、そのためには拡大再生産が行なわれてこれらの諸要素が存在していなければならないからです。この前提は重要です。というのは、単純再生産から拡大再生産への「移行」の条件を明らかにすることが本章の大きな課題の一つであるとの意見があるからです。この点は「移行」という言葉が登場するところで、少し突っ込んだ議論をしたいと思います。したがって、ここでは指摘するに留めます。

(3)可能的または潜勢的貨幣資本の形成

①蓄蔵貨幣(可能的または潜勢的貨幣資本)は再生産の要素ではない

 さて、草稿はここから区分2)に入りますが、現行版には見出しはありません。

 「たとえば資本家Aが、1年が経過するあいだに(または技術的諸条件によってはそれ以上の年数にわたって)次々に商品生産物の諸部分――その総計が彼の年間商品生産物をなす――を売っていく場合には、それにつれて彼は、商品生産物のうち剰余価値の担い手――剰余生産物――である部分をも、つまり彼が商品形態で生産した剰余価値そのものをも、次々に貨幣に転化させ、そうしてこの貨幣をだんだん積み立てていき、こうして可能的な(potentiell)新貨幣資本が形成されていく」(486頁)

 資本家Aは、一年あるいはそれ以上の年数をかけて商品を販売するものとされます。商品の販売によって彼は貨幣を取得します。商品生産物中の不変資本(c)と可変資本(v)の部分の貨幣は再び資本として前貸しされます。ここでは剰余生産物部分が問題になります。Aはこの部分の販売によってそれを貨幣に転化しますが、これを個人的消費に支出しないで追加の資本(ここでは追加不変資本)のために一定の額に達するまで積み立てるものとします。すると彼のもとに「可能的な新貨幣資本が形成されて」いきます。

 マルクスは、このように積み立てられた貨幣を可能的な(potentiell)貨幣資本と規定するのですが(彼はこれを潜勢的な(virtuell)貨幣資本とも呼びます)、単なる貨幣資本ではなく、なぜ「可能的な」貨幣資本なのかというと「それが、生産資本の諸要素に転換されるべき使命をもっているからである」(同前)と言います。彼は、次のようにも言います。

「しかし実際には、彼はただ単純な蓄蔵貨幣形成を行なうだけであって、それは現実の再生産の要素ではない」(同前)

前者の意味ですが、資本家の行為そのものは、商品を売ってそれを貨幣に変え、そしてそれを溜め込むという単なる行為と何ら変わらないということです。難しいのは、後者の「それ(蓄蔵貨幣)は現実の再生産の要素ではない」の意味をどう理解するかです。

 再生産とは周期的(継続的)生産のことですが、これを成りたたせるためには諸生産物を社会的に再配分する必要があります。肝心なのは生産物の再配分であって、貨幣はその仲立ちをするに過ぎません。彼の商品(生産物)はそれを購入した相手にとって生産要素になります(消費財も労働力の再生産に役立つならそれは一種の生産要素です)。流通貨幣は生産要素でも再生産の要素でもありません。問題になっている資本家の行為は、自らの商品を販売して流通から貨幣を引き上げてそれを積立てるというものです。貨幣をいくら積み立てても、それは(再)生産要素になるわけではありません(マルクスは、注文による生産の例を挙げたところで「貨幣それ自体は現実の再生産の要素ではない」(486頁)と言っています)。

 ところがマルクスは、その一方で、固定資本が更新されるまでに形成される貨幣資本(蓄蔵貨幣)については「再生産の要素」と規定している、との指摘があり、この規定の違いはどこからくるのか、議論になりました。

固定資本の補填のところで、マルクスはどのように述べていたでしょうか。

 「固定要素――建物や機械類など――の寿命が尽きてもはや生産過程で機能することができなくなれば、それの価値は、寿命の尽きた固定要素とは別に、完全に貨幣――貨幣沈澱の総額――のかたちで補填されて存在する、すなわち、固定資本からそれが生産に協力した商品に徐々に移転されていき、商品の販売によって貨幣形態に移った価値として、存在することになる。次に、この貨幣は、固定資本(またはそれのもろもろの要素、というのは、それのさまざまの要素はそれぞれ寿命が違っているからである)を現物で更新するのに、だから生産資本のこの要素を現実に更新するのに役だつ。つまり、この貨幣は、不変資本価値の一部分の、それの固定部分の貨幣形態なのである。だからこの貨幣蓄蔵は、それ自身、資本主義的再生産過程の一つの要素であって、固定資本がその現物形態の寿命を全うし、したがってそれが全価値を引き渡してしまって、新たに現物で補塡されなければならなくなるときまでの、固定資本またはその個々の要素の価値の再生産であり、貨幣形態での積立である」(448頁、訳は草稿から)

 そこでは固定資本の損耗分を表わす蓄蔵貨幣(貨幣資本)は「新たに現物で補塡されなければならなくなるときまでの、固定資本またはその個々の要素の価値の再生産であり、貨幣形態での積立である」から、資本主義的再生産過程の一つの要素だとされています(「再生産過程の要素」とありますが、「再生産の要素」と同じと見なして構わないと思います)。貨幣形態をとっていても、それは固定資本の価値の一部を体現する構成要素と見なすことができ、したがって再生産の要素だということになるのでしょう。

これに対し、剰余生産物の販売によって形成され積立てられた蓄蔵貨幣は剰余価値の貨幣形態です。これは固定資本の損耗分としての貨幣とは異なり、可能的あるいは潜勢的な貨幣資本であって再生産の要素にはなり得ないということなのでしょう。

②この蓄蔵貨幣は新たなあるいは追加の社会的富ではない

 またマルクスは「可能的な新たな貨幣資本であるこのようなAの蓄蔵貨幣が(は)追加的な社会的富でない」と述べています。まず彼は、「かりにそれ(蓄蔵貨幣―引用者)が消費手段に支出される場合にそうでないのと同じである」とし、さらに「それは通流から引き上げられた貨幣であるから、その前は通流のなかにあった」(出処は既存の貨幣である)ことからも、貨幣が商品流通のために何度も通流しても貨幣自身の価値が大きくなったことを意味しないことからも、それは「新たな富でない」ことは明らかだとしています。ただし、これには例外があり、「ただ金生産においてのみ――金生産物が剰余価値の担い手である剰余生産物を含んでいるかぎり――新たな富(可能的貨幣)がつくりだされるのであり、また、新たな金生産物がそっくり流通に入るかぎりでのみ、それは可能的な新貨幣資本の貨幣材料を増加させる」(487頁)としています。

これを正確に読み取るためには、富とは何か、「追加的」富もしくは「新たな」富とは何か、といった点が明確にされなければなりません。

まず富とは何かですが、財もしくは労働生産物だと言うことができます。ただし、これは資本主義社会では商品という形態を取ります。『資本論』第1巻の冒頭の有名な文章を引いてみましょう。

「資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる」

ただし、単に自家消費のための生産物は富と言えても、「社会的富」ではありません。資本主義社会のもとでは社会的富(社会的使用価値)は商品という形態をとります。

 次に問題になるのは、「追加の」あるいは「新たな」富とは何か、です。結論から言うと、ある年に新たに生産された年間生産物(商品)のことです(拡大再生産によって増額した生産物が追加の生産物だとの意見があったのですが、違うように思います)。単純再生産の表式で言うなら9000の価値を持つ年総生産物のことです。したがって、レポーターが「『追加的』社会的富とは、年生産物中の剰余生産物部分」(レジュメ)だとしたのはまったくの誤りでした。これはマルクスが年間生産物を「新生産物」と呼んでいることと一致します(ただし生産物価値9000のうち新たに形成された価値はv+mの3000です)。

 金属貨幣(ここでは金)はもともと商品です。だから貨幣は他の商品と同じく社会的富なのですが、ここで問題になっているのは、すでに社会に存在する貨幣です。その年に生産されて流通過程に入り込んだ貨幣ではありません。ただし例外があります。その年の金生産物です。その全体が新たな富ですが、そのうち貨幣材料として流通に入れば社会の貨幣量を増やしたり、流通で摩耗した貨幣を補填したりします。

 では「Aの蓄蔵貨幣が追加的な社会的富でないのは、かりにそれが消費手段に支出される場合にそうでないのと同じである」というのはどうでしょうか? Aの蓄蔵貨幣が消費手段に支出されるということは、不生産的消費に支出されるということであり、それは生産に寄与しないことを意味します。蓄蔵貨幣の状態であっても生産に寄与しないのであり、これは消費手段への支出(不生産的消費)と同じだと言うのはそのとおりです。もし蓄蔵貨幣が生産手段に支出されるなら、どうなるのでしょうか? その時点でその貨幣は追加的な社会的富になるのでしょうか? 蓄蔵貨幣の使途を基準にした規定のようですが、スッキリしません。

4)外観上の困難とは何か?

 「貨幣は、商品を売ってもそのあとで買わないことによって、流通から引き上げられて蓄蔵貨幣として蓄えられる。したがって、このような操作を一般的に行なわれるものと考える場合には、買い手がどこからやってくるのかがわからないように見える」(487頁)

 そこでマルクスは、個別資本において行なわれるこのような貨幣蓄蔵が一般的に、つまりどの資本家たちも一斉に行なうものとするとしたらどうなるか、という問題を提示します。これは突拍子も想定ではありません。「どの個別資本も蓄積過程にあることができるのだから、この過程は一般的に行なわれるものだと考えられなければならない」(同前)。

 すると「買い手がどこからやってくるのかがわからないように」見えます。「もしも年間再生産のさまざまの部分のあいだの流通過程を直線的に進行するものだと考えるとすれば……、売らずに買う金(または銀)生産者から始めなければならないことになり」、本源的な貨幣材料の供給者である金生産者(彼らは売らずに買うことができる)から始めなければならなくなるとマルクスは言います。すると「年間の社会的剰余生産物の総計(剰余価値の担い手)が彼(金生産者―引用者)のところに移り、他の資本家の全部は、生まれながらに金として存在する彼の剰余生産物を(したがってまた彼の剰余価値の金になった現物〔Naturalvergoldung〕を)自分たちのあいだで比例配分的に分け合う」という馬鹿げたことを前提することになります。商品を売ってもそのあとで買わないという操作が一般的に行なわれるものという想定は、蓄蔵される貨幣は金生産者がそれを一手に供給するということを否定するなら、もう一つの馬鹿げた「一般的な同時的貨幣蓄蔵を宣言(想定―引用者)すること」(同前)になります。

 資本の蓄積(ここでは不変資本の蓄積)に先行して蓄蔵貨幣(可能的貨幣資本)が形成されなければならないのに、それが社会的には不可能のように見えるという「外観上の困難」に直面することになります。マルクスは「流通過程の直接的進行」つまり一方的販売が一般的に行なわれるという想定自体が「間違っている」と、解決の道を示唆しているのですが、いずれにせよこの時点で困難に立たされていることには違いありません。

 そこで「外観上の困難」の解決が当面の課題になります。

「われわれは、この外観上の困難をさらに詳しく解決する前に、まず部門〔Klasse〕I(生産手段の生産)での蓄積と部門Ⅱ(消費手段の生産)での蓄積とを区別しなければならない。部類〔Kategorie〕Iから始めよう」

「この外観上の困難をさらに詳しく解決する前に」とあるので少し戸惑います。これだと、外観上の困難の解決に足を踏み入れる「前」に、この問題から離れて、各部門の蓄積上の問題を一つずつ片付けておこうと言っているように読めるからです。しかし後の展開を見ると、けっして別の問題に移ってはおらず、外観上の困難の解決という延長上にあります。「前に」を「ために」と置き換えたほうがこの文章の趣旨が正確に伝わるとの発言がありました。そうするとこの文章は次のような趣旨になるように思います。

<外観上の困難を解決するために、まず部門Ⅰの蓄積と部門Ⅱの蓄積とに分けてそれぞれの部面での蓄積を検討する、そのあと両部門を関連づけて詳しく検討を加える、という手順を踏まなければならない。まずは部門Ⅰでの蓄積から始めることにしよう>

 ということで、今回は「前文」まででした。次回(7月25日)は「第1節 部門Ⅰでの蓄積」(草稿は区分3)からになります。

(雅)

【学習会の日程】

当面の学習会は次のとおりです。奮ってご参加ください。

◎第1巻学習会

【日時】7月11日(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第8章「労働日」第5節「標準労働日のための闘争 14世紀半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法」の後半・第6節「標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 1833-1844年のイギリスの工場立法」・第7節「標準労働日のための闘争 イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」
◎第2期(第2巻実施中)第177回学習会

【日時】7月25(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第21章「蓄積と拡大再生産」第1節「部門Ⅰでの蓄積」・第2節「部門Ⅱでの蓄積」
*両日とも正面奥の「会議室」です。マスクを持参されるようお願いします。