第175回学習会報告

2月22日(土)に学習会を実施し、第20章「単純再生産」の第13節「デステュット・ド・トラシの再生産論」をやりました。長い期間をかけてきた第20章ですが、今回をもって何とかやり終えることができました。

第13節 デステュット・ド・トラシの再生産論

本節は、前段の第10節から第12節までは第8草稿から採られていたのにたいし、なぜか第2草稿から採られています。それはどうしてなのかという問題意識から、これが第2草稿のどの辺にあるのか当たってみました。

第2草稿は全3章からなっていますが、再生産論は第3章にあります。マルクスは構想目次を書いており、それによると、この章で単純再生産と拡大再生産の両方を論じる予定だったようです。しかし前者の単純再生産しか果たすことができませんでした。第2草稿の特徴は二段階の叙述をしていることです。社会的総生産物の転換をまず貨幣流通の媒介抜きで叙述し、次いで貨幣流通を媒介にして叙述するというやり方です(第8草稿は、貨幣流通を媒介にした叙述になっています)。本節部分は、後者の貨幣流通の叙述から採られています。でも、なぜデステュット・ド・トラシ(本文はもっぱら「デステュット」とありますが、ここでは以降「トラシ」と呼ぶことにします)なのでしょうか?

 

1 トラシは利潤の源泉を流通に求める

 

  社会的再生産の考察における「経済学者達の混乱と大言とに満ちた無思想の例」としてトラシが取り上げられています。彼はスミスよりあと、リカードとほぼ重なる時代の哲学者のようです。「コンディヤックの感覚論の深い影響をうけ、諸種の観念形態がもっとも単純な感覚要素から成立することを主張」(資本論辞典)したというので、後の時代にレーニンが批判したマッハと同様の主観的観念論者だったように思われます。経済理論としてはスミスから影響を受けたものに俗流的見解が付け加わっているといったところでしょうか。ただリカードが彼を高く評価したということなので、リカードの『経済学及び課税の原理』の当該箇所(第20章「価値と富と。その差別を示す諸性質」)をめくってみたところ、トラシが商品価値の内在的尺度を労働に求めていること、それもリカードが唱えた投下労働価値説と同じようなことを言っていたことが分かりました。ただし、ここではトラシの価値論ではなく、俗流性が際立っている再生産論に向けられます。

 トラシの理論の特徴は、「大きな利潤」の形成を流通過程に求めること、それも社会的総生産物の転換(流通)の過程で生じる「貨幣の還流」という事象を通じて儲け=利潤が生じる、と説明するところにあります。要するに、彼は「貨幣還流」という流通現象に幻惑されて、間違った説明をしたのです。その意味で、貨幣流通を媒介にした再生産過程の把握の悪い見本としてトラシを研究することは特別の意義があるということなのです。

彼は諸階級を大きく三つに分けました。第一に産業資本家たち、第二に賃労働者たち、第三に不労資本家たちです。第一と第二は生産的階級であるのに対し、第三は不生産的(不妊的)階級だとされます。生産的階級といっても産業資本家たちのほうが賃労働者たちよりも優勢だとされます。不労資本家たちによって雇われる賃労働者たちか(たとえば召使など)がいますが、彼らの労賃は不労資本家の収入に含まれるとしています(『剰余価値学説史』第4章「生産的労働と不生産的労働とに関する諸学説」のなかのトラシの項目を参照のこと)。

さて、トラシの見解は、産業資本家の「大きな利潤」は「自分たちが生産するものを全て自分がその生産に費やしたよりも高く売ることによって」(原書476頁)生じるというものです。産業資本家たちの生産物は、自分たちを含めた三つの階級を対象に売られるのですが、トラシは次のように書いています。後の考察に影響しますので、長いですが、彼の文章を再掲します。

(1) 彼らが自分たちの利潤の一部分で支払うところの、彼らの消費のうち彼らの欲望の充足にあてられる全部分については、彼らは、互いに売り合う。

 (2) 賃金労働者に。彼らが雇っている労働者にも、不労資本家が雇っている労働者にも。こうして、彼らは、これらの賃金労働者から、もしわずかな貯蓄でもあればそれを除いて、全賃金を取り戻す。

 (3) 不労資本家に。このような資本家は、彼らに、自分の収入のうち自分が直接に使用している賃金労働者にすでに渡したもの以外の部分で支払う。こうして、彼らが年々これらの不労資本家に支払う全賃料がこれらの仕方のどれかによって再び彼らのもとに還流する」(同前)

 わずかこれだけの材料から、しかもトラシが出してもいない数字を使ってあれこれ批判するのは公正ではないとの意見が出ました。この意見にたいして、マルクスは「生産に費やしたよりも高く売る」可能性のあるケースを余すことなく検討しており、その限りでマルクスのやり方は正当だとの反論がありました。この文章のあとにトラシがどのように論じたのか具体的に当たってみないことには、何とも言えない面があるのですが、マルクスの展開に沿ってみて行くことになりました。

 ここで注意すべきは、社会的総生産物がすべて消費手段の形態をとっていることです。これは恐らくスミスの枠組みを引き継いでいるからだと思われます。つまり生産手段の形態での生産物が視野に入らなかったのです。

 こうして、トラシが主張するように、産業資本家たちは、彼らの商品をこの三つの部類の人たち(その一つは自分たち)に「生産に費やしたよりも高く売る」ことが出来るのか、仮に出来るとしてもそのことによって彼らは利潤を獲得することができるのかを検討していくことになります。

検討の前に、トラシの命題に出てくる「生産に費やしたもの」すなわち生産費とは何ものなのか、ということになりました。

 この生産費の意味には二つの可能性があります。一つは、資本家が前貸しされる資本額(不変資本と可変資本)という意味であり、もう一つは生産物に対象化されている労働量すなわち商品価値という意味です。ここでは後者の意味だということになりました。

 

2 三つの場合の具体的検討

 

 これから具体的な検討に入るのですが、産業資本家たちが生産した消費手段の転換にかかわる貨幣現象が問題になっているのです。したがって、この転換は、マルクスの再生産表式の消費手段生産部門のv+m部分の生産物転換(流通)と重なるように思います。

 

1)産業資本家同士が 売り合う場合

 

 まず産業資本家同士の売り合いによってお互い儲けることが可能でしょうか。仮に生産費(商品価値)より高く売ったとしても「資本家階級は、自分の商品の価格の全面的な名目的引き上げにもかかわらず、自分たちの個人的消費のために互いに分け合うものとしては400ポンドの価値の商品量しかもっていない」(原書477頁)のであって、それをお互いやり合うのだから彼らは決して儲けることができない、むしろ名目的に価格が高くなった商品量を流通させるための貨幣が余分に必要になってしまう、とマルクスはトラシを一蹴しています。

 この箇所に「ここでは『彼らの利潤の一部分』が前提されており、したがって一般に、利潤を表わす商品在庫が前提されているということは、まったく問題外とする。ところが、まさに、この利潤がどこから出てくるのかということこそ、デステュットがわれわれに説明しようとすることなのである。この利潤を流通させるために必要な貨幣量というものは、まったく従属的な問題なのである」(原書477頁)という文章があります。この点に注意を払う必要があります。じつは資本家同士が売り合うのは社会的総消費手段のうちのm部分なのです。トラシは利潤の源泉は流通から生じると言うのですが、それはすでに社会的総生産物の一部に存在していることを彼は忘れているとマルクスは指摘しているのです。でも、ここでは流通で利潤が生じるかが問題になっているので、その点は問わないとマルクスは言うのです。

 

2)賃金労働者たちに生産物を売る場合

 

 産業資本家たちが賃労働者たちに生産物(消費手段)を売る場合です。トラシは、産業資本家が雇う賃労働者だけではなく不労資本家が雇う賃労働者も含めているのですが、(3)で見るように、ここではマルクスは除外しています。産業資本家たちは、自分たちが直接雇う賃労働者に生産物を売り、労働力の購入のために費やした貨幣資本(労賃の貨幣形態)を「取り戻す」ことによって致富になるというのがトラシの主張です。社会的消費手段のv部分の流通が問題になっているのです。マルクスは幾つかのケースを検討しています。その内容の紹介は省略しますが、結局のところ「資本家階級一般が自分の利潤を引き出す財源は、正常な労賃からの引き去りによって、労働力にその価値よりも安く支払うことによって(のみ)、すなわち賃金労働者としての労働力の正常な再生産に必要な生活手段の価値よりも安く支払うことによって(のみ)、形成されることになるであろう」(原書479頁)、つまり流通上のやり取りでは賃金の削減すなわち労働力の価値以下の支払いによってしか儲けることができないということになります。しかし、このやり方は「産業の死」(トラシ自身の言葉)を意味します。というのは労働力の継続的な再生産を不可能にするからです。したがって正常な労賃が支払われなければなりません。

「デステュットによれば当然支払われるべきだという正常な労賃が支払われるとすれば、利潤の財源は、産業資本家にとっても不労資本家にとっても存在しないことになる」(同前)、「こうして、デステュット氏は、どのようにして資本家階級は儲けるのかという全秘密を、労賃からの引き去りによるということに帰着させるより他はなくなるであろう。そうなれば、彼が(1)(3)とで述べている剰余価値の別の源泉は存在しないことになるであろう。/つまり、労働者の貨幣賃金が階級として彼らの生計に必要な消費手段の価値に還元されている国では、どの国でも、資本家のための消費財源も蓄積財源も存在しないことになるであろう。したがって資本家階級の生存のための財源も存在せず、したがってまた資本家階級も存在しないことになるであろう」(原書479-480頁)

 結局トラシは産業資本家の利潤を労賃の削減に帰着させざるを得ないのですが、そうなると彼自身認めるように産業を維持できなくなってしまい、(1)や(3)のやり方による利潤も得られなくなってしまいます。正常な労賃が支払われる場合は、トラシ流の利潤(流通上の儲け)そのものが生じなくなってしまいます。利潤が生じなければ「資本家のための消費財源も蓄積財源も存在しないこと」になり、資本家階級も存在しえないことになります。

 

3)「不労資本家たち」に売る場合

 

産業資本家たちが「不労資本家たち」に生産物を売って貨幣を回収する場合はどうでしょうか? 不労資本家たちとは、産業資本家たちに土地を貸して地代を得る土地所有者たちや営業資金を貸し付けて利子を得る貸付資本家たちのことです。彼らの手に産業資本家たちから賃料(地代・利子)という形態の貨幣が渡ります。彼らは消費手段を買うことによって産業資本家たちのもとに貨幣が戻ってきます。トラシはこれを産業資本家たちのもとに全賃料が帰ってくるものと見なし、これによって産業資本家たちは利潤を得るというのです。産業資本家たちは果たしてこのことによって儲けるのでしょうか?

産業資本家たちは総生産物(消費財)のうち利潤(m)部分として200ポンド・スターリングの生産物を持っており、そのうち半分の100ポンドを自分たちの個人的消費のために消費し、残りの100ポンドの生産物は不労資本家たちに属する――彼らの全賃料の額は100ポンドだということです――と、想定されます。賃料の一部は分割されて彼らが雇う賃労働者たちに渡りますが、本考察にとってこの分割を持ち込むことは余計であるとしています。ここでは総消費手段のm部分のうち産業資本家たちと不労資本家との間で行なわれる流通が対象になります。(1)の場合と同じように生産物としてm部分すなわち利潤がすでに存在しているのですが、しかしここではそのことは問われません。この部分の流通によって産業資本家は儲けることができるのかが問題になっているのです。

幾つかのケースが検討されます。

産業資本家と不労資本家との取引の結果、不労資本家たちのもとに100ポンドの消費財が渡り、他方100ポンドの貨幣(賃料として支払われた貨幣)が産業資本家のもとに還流します。これが産業資本家たちにとっての致富手段なのかとマルクスは問うています。マルクスは取引前と取引後を比較しています。

「取引の前から彼ら(産業資本家たち―引用者)は200ポンドという価値額をもっていた。貨幣での100ポンドと消費手段での100ポンドとを」(原書481頁)

産業資本家たちが、取引前に持っていた200ポンドの内訳は貨幣の形態での100ポンドと消費手段の形態での100ポンドだとされています。先の想定では、産業資本家たちは利潤に相当する200ポンドを生産物として持っているものとされました。どうなっているのでしょうか? 産業資本家たちと不労資本家たちとの取引が問題なので産業資本家たちが最初に持っている個人的消費のための100ポンドは捨象されているものと考えられます。貨幣での100ポンドとは賃料用の貨幣であり、消費手段での100ポンドは不労資本家の個人的消費用だということになります。両者の取引は、100ポンドの貨幣は賃料として一方的に不労資本家のもとに移り、不労資本家は産業資本家から100ポンドの消費手段を購入し、産業資本家のもとにその代金が入るというものです。賃料として払った貨幣が産業資本家のもとに戻って来ています。

この取引後どうなっているでしょうか?

「取引の後では彼らは最初の価値額の半分しかもっていない。彼らは再び貨幣で100ポンドをもっているが、消費手段での100ポンドを彼らはなくしており、それは不労資本家の手に移っている。だから、彼らは100ポンドだけ儲けているのではなく、100ポンドだけ貧しくなっているのである」(原書482頁)

貨幣が戻ってくるので賃料を取り返したように見えますが、消費手段の販売によってその代金が入ってきているに過ぎません。その代金(貨幣)の出もとが賃料だったというだけの話なのです。だからこの取引の結果、最初産業資本家の手にあった200ポンド(消費手段と貨幣)は100ポンド(貨幣)だけになっています。「100ポンドだけ貧しくなって」いるのです。

「もしも、彼らが、はじめに100ポンドの貨幣を支払っておいて次に100ポンドの消費手段の代価としてこの100ポンドの貨幣を取り返すという回り道を通らないで、直接に地代や利子などを自分の生産物の現物形態で支払ったとすれば、彼らの100ポンドの貨幣が流通から還流することはないであろう。なぜならば、彼らは100ポンドの貨幣を流通に投じはしなかったからである。現物支払の方法でならば、事柄は簡単に、彼らが200ポンドの価値の剰余生産物のうちから半分を自分に取っておき、後の半分を等価なしで不労資本家にやってしまうというふうに、現れたであろう。デステュットとしても、こんなことを致富手段として説明することに誘惑を感ずるようなことは有り得なかったであろう」(原書482頁)。

貨幣は商品流通を媒介する手段なのですが(賃料の場合は支払手段として機能)、取引の内実はこのような現物支払いのようなものだということです。もしトラシがそれを知るなら、貨幣の還流が致富の手段などと言えるはずもないのです。

そのすぐあとにマルクスは、産業資本家たちがなぜ賃料を不労資本家たちに支払うのかと問うています。産業資本家が彼らから土地や資本を借りたのは、これらは「生産物一般についても、生産物のうち剰余生産物を形成し剰余価値を表わす部分についても、その生産条件の一つ」(同前)だからです。借りた土地や資本の利用によって利潤が出てくるのです。とはいえ利潤が地代と利子から生じると言うことは出来ません。「(利潤は)それらに支払われる価格から出てくるのではない。この価格はむしろ利潤からの控除分をなしている」(同前)とは、地代や利子は利潤からの派生物だということ、これらは産業資本家たちの利潤から差し引かれるというという意味です。

「そうでなければ、産業資本家が剰余価値の残る半分をやってしまわないで自分のところに取っておくことができる場合には、彼らはより豊かにはならないで、より貧しくなるのだ、と主張しなければならないであろう」(同前)とありますが、分かりにくい文章です。土地や資本があってこそ利潤が可能になるのであり、そこから賃料分を控除することが出来るのですが、「そうでなければ」つまり賃料が利潤からの控除であることを認めないのなら、むしろ産業資本家たちは賃料を渡さないで手もとに置くことによってより貧しくなると言わなければ――これは馬鹿げた主張ですが――トラシは一貫しない、ということが言われているだと思われます。貨幣還流のような流通現象を、ただこのような流通現象に媒介されているだけの生産物分配と混同するならば、このような混乱に陥らざるを得ない」(同前)とマルクスは言います。

ところが、トラシは狡猾にも「地代などの支払は産業家の利潤の削減」だということを認めるのです。そうなると、(1)と(3)の場合と同じように、産業資本家たちは不労資本家たちに「全ての商品を不当に高く売ることによって」儲けざるを得なくなるのですが、それは可能なのかマルクスは具体的に数字を出して検討しています。マルクスは「二つの場合が可能である」として二つのケースを挙げています。一つは、「働かない人々が年々産業家から受け取る100ポンドの他になお別の貨幣手段をもっている場合」(①)、もう一つは100ポンドしかもっていない場合(②)です(原書483頁)。

 ①の場合、不労資本家たちは100ポンドのほかに20ポンドもっているなら、産業資本家たちは自分がもっている100ポンドの商品(消費手段)を価値以上の120ポンドで売ろうとします。そのとおり売れれば120ポンドの貨幣が産業資本家のもとに流れ込みます。その結果どういうことになるかというと、産業資本家たちの商品が不労資本家たちに渡ります。商品の代価が産業資本に支払われますが、代金120ポンドのうち100ポンドの出もとは賃料です。「彼ら(産業資本家たち)自身の商品の代価が彼ら自身の貨幣で彼らに支払われた」(同前)ことになります。だから賃料分が戻って来ても、100ポンドの価値額の商品が失われているのですから、産業資本家が100ポンドを損失しているのです。この場合、産業資本家は商品を120ポンドの価格で売るので、商品価値を越える超過分20ポンドを受け取ることになります。その分は確かに産業資本家にとって利益になるでしょう。しかし彼はすでに100ポンドを損失しているので、差し引き80ポンドを損失していることになります。「決してプラスにはならず、やはりマイナス」(同前)です。

「不労資本家に対してやっただまし取りは、産業家の損失を軽くはしたが、それだからといって彼らにとって富の損失を致富手段に転化させたのではない。だが、この方法も長続きはしない。というのは、不労資本家も、毎年100ポンドの貨幣しか受け取らないのに毎年120ポンドの貨幣を支払うことはできないからである」(同前)

 別の方法(②の場合)つまり不労資本家は100ポンドの貨幣しか持っていない場合はどうでしょうか? 不労資本家が賃料としてもっている100ポンドの貨幣と引き換えにて80ポンドの価値の商品を価値以上の100ポンドの価格で売ることができるかも知れません。この場合、20ポンド分の商品が産業資本家たちの手もとに残り、不労資本家たちには属さなくなります(学習会では、この20ポンドは商品の形態であるとは言えないとの発言がありましたが、取引前に、産業資本家たちの手もとに賃料分として不労資本家に属する100ポンドの消費手段があることになっていましたので、20ポンドは商品形態だと言えると思います)。「この場合にもやはり彼らは80ポンドを地代や利子などの形でただでやってしまう」(同前)ことになります。「このだまし取りによって、彼らは不労資本家への貢ぎ物を軽くはしたが、この貢ぎ物は相変わらずなくならない」(同前)のです。マルクスは、産業資本家が商品を価値以上で売ることができるというのなら、不労資本家のほうも同じ権利において「将来は自分の土地や資本について、これまでのように100ポンドではなく、120ポンドの地代や利子などを要求することもできる」(同前)と皮肉を込めて言います。こうなってしまうと産業資本家の努力(だまし取り)も台無しです。

以上、利潤は貨幣還流という流通現象から生じるものではないことが明らかになりました。

 

3 トラシの理論の二面性

 

 最後にマルクスは、トラシがこのような“みごとな展開”をするのはどうしてなのか、それは彼の理論の二面性にあることを指摘しています。彼は〈労働はいっさいの富の源泉である〉(原書483頁)とか、産業資本家が〈自分の資本を充用するのは、利潤を加えてこの資本を再生産する労働に支払うためである〉(同前)といった、スミスを引き写した言説――比較的まともな労働価値説――を述べる一方で、産業資本家こそが〈他の全ての人間を養い、ただひとり公の財産をふやし、またわれわれのすべての享楽手段をつくり出す〉(同前)とか、資本家が労働者によって養われるのではなく労働者が資本家によって養われるのだ、なぜなら〈労働者はただ一方の手で受け取って他方の手で返すだけ」(原書484頁)だからである、「だから、彼らの消費は、彼らを雇う人々(産業資本家のことだ――引用者)によって生み出されるものとみなされなければならない〉(同前)といった俗流的見解を振りまくのです。トラシにあっては後者の俗流的見解こそ優勢であり、そして彼は富の源泉となる「流通」の運動を発見したと大騒ぎし、自分こそ鏡の作用を思わせる真理を探りあてたとうぬぼれるのです。

(次回から、第21章「蓄積と拡大再生産」に入ります)

(雅)
【学習会の日程】

当面の学習会は次のとおりです。奮ってご参加ください。

◎第2期(第2巻実施中)第176回学習会

【日時】3月21(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第21章「蓄積と拡大再生産」前文・第1節「部門Ⅰでの蓄積」
◎第1巻学習会

【日時】4月11日(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第8章「労働日」第3節「搾取の法的制限のないイギリスの諸産業部門」・第4節「昼間労働と夜間労働 交替制」・第5節「標準労働日のための闘争 14世紀半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法」