第172回学習会報告

 

11月23日(土)に第20章「単純再生産」の第12節「貨幣材料の再生産」の第2回目をやりました。

前回は本節の第9段落の途中で切り上げたため、今回は第段落のはじめからやる予定でしたが、冒頭、レポーターから、草稿に目を通したので、金生産部門Ⅰgの年生産物の諸部分の転換が始まる第6段落に戻って説明を加えたい旨の申し出があり、これを受け入れました。復習のようなものだから、そんなに時間がかからないと思ったのですが、そうは行かず、かなりの時間を要してしまいました。そのため今回は第12段落までしか進みませんでした。

そのような事情ですので、前回と重複してしまうのですが、それを恐れず報告したいと思います。より深められた内容になっているということで、ご理解ください。

 

第12節 貨幣材料の再生産(第2回)

 

1 仮定される金生産部門の年生産物の額とその価値構成

 

段落から金生産部門の諸部分の転換が考察されるのですが、マルクスは前段で、金は貨幣材料にもなる点で他の金属生産とは違うとしながらも、金の生産は金属生産一般と同じく部門Ⅰに属する。すなわち生産手段の生産を包括する部類に属する」と見なし、金生産部門を総体として扱っています。

貨幣そのものは生産手段でも消費手段でもないことは明らかです。実際、マルクスは、第2部第1篇で「貨幣として機能する商品は、個人的消費にも生産的消費にもはいらない」(原書138頁)と述べています。だとするなら、商品材料になる金生産は捨象して、貨幣としての金あるいは貨幣材料を生産する部門だけを抽出して独自に考察されるべきだという意見が出てきても不思議ではありません。実際、ローザはこの立場から、貨幣材料を生産するという意味での金生産部門をⅢ部門として設定すべきであると主張しました。しかしマルクスは、冒頭部分で、貨幣材料を潜勢的貨幣(Potentialiten Geld)と言い換えています。ということは、彼は、貨幣材料と貨幣とは区別されるべきであって、金はいずれ貨幣になるとしても生産された段階ではまだ可能性があるに過ぎず、生産後に何らかの契機がなければ貨幣になることができないと考えていたことを示しているように思えます。そうでなければ、商品材料になる金と貨幣材料になる金とを分けずに合わせて論じることができたのか理解できません。この点を深堀りする議論は行なわれなかったのですが、その後の展開を追っていくなかで、マルクスがなぜ貨幣材料の金生産だけを抽出しなかった理由が浮かび上がってくるのではないでしょうか。そう期待して読んで行くことにしましょう。

さて金の年間生産額は30、その内訳は20c+5v+5mだと仮定され、これらの諸部分の転換が追究されます。

「20cは、Ⅰcの他の要素と交換されるべきもので、……5v+5mは、Ⅱcの諸要素すなわち消費手段と交換されるべきものである」とありますが、特に目新しいことが言われている訳ではないということになりました。これは金生産が部門Ⅰに属すると規定したことから必然的に出てくる結論です。v+m部分については、それはⅠg部門にとって消費元本なのですから、部門Ⅱの消費手段と交換されるべきだということになります。部門Ⅰの生産物一般がそうであるのと同様です。20c部分ですが、これは金生産にとって不変資本部分なので、生産手段に転換されなければなりません。金生産者が自分の生産物(金)を生産手段として使うことは考えにくいので、「Ⅰcの他の要素」とは金生産者以外の部門Ⅰの生産物であり、さらに絞ればそのc部分だということになります。

なお「5v+5m(Ⅰ)は、Ⅱcの諸要素すなわち消費手段と交換されるべきものである」という文章に出てくる「Ⅱc」ですが、大谷氏によると、草稿は「Ⅱ(v+m)」となっていて、MEGAはこれを「Ⅱc」に訂正しているとのことです(現行版と同様。エンゲルスはⅡcであるべきだと判断して訂正したことになります)。草稿の「Ⅱ(v+m)」は、上述のことを踏まえるなら明らかに誤記だということになります。ところが大谷氏は「Ⅱc」ではなく「Ⅱmとあるべきところである」と注記しています。しかし、この後で展開されるこの部分の転換を追うなら、Ⅰ(g)のvもmもⅡのcとの間でやり取りをしており、現行版およびMEGAのように「Ⅱc」と訂正するほうが正しいとだろうということになりました。

 

2 Ⅰgv部分の転換の考察

 第7段落に入り、Ⅰg5vの転換が考察されます。
 「
5vについて言えば、どの産金業も(草稿はここに「他のあらゆる事業がそうするように」という文章が挟まっています――引用者)まず労働力を買うことから仕事を始める。自分で生産した金でではなく、現に国内にある貨幣の一部分でそれを始める」(原書467頁)

 じつは、前回、ここは創業時のことなのか、それともすでに事業が軌道にのっているある事業年の年初のことが言われているのかとの疑問が出され、そのどちらでもあり得るとの発言があって、そういうことでよいだろうということになったのですが、筆者は改めてこの文章を読み直してみました。

まず産金業が労働力を雇う貨幣は「自分で生産した金」ではないとあるのが気になります。この文章からは、創業時のことが言われているように読めるのですが、それだと、あとの文章にうまく繋がりません。細かくなりますが具体的に追ってみましょう。

 「労働者たちはこの5vでⅡから消費手段を買い、Ⅱはまたこの貨幣でⅠから生産手段を買う。仮に、ⅡがⅠから2だけの金を商品材料など(Ⅱの不変資本の成分)として買うとすれば、2vは金生産者Ⅰに貨幣で帰ってくるが、この貨幣はその前からすでに流通に入っていたものである」(同前)

 もし創業時だとすると、彼らはこれから金を生産するのですから(金鉱石を採掘してそれを金地金にするところまでが彼らの仕事だとしましょう)、まだ金生産物を手にしていないはずです。するとⅡ部門の資本家はⅠgの資本家から金を商品材料として買うことができず、生産ができなくなってしまいます。ⅡがⅠgから金を買えるということは、Ⅰgが創業時の段階にはないこと、すなわち彼らは年初に前年の生産物である金を持っていることを示しています。そうでないと、その後の叙述が理解不能になってしまいます。したがって、以降は、すでに事業を重ねている段階にあると産金業が取り上げられているものと理解して読み進めて行くことにします(事実上そのように理解して読んでいきました)。

 ⅡはⅠgの労働者たちに消費手段を売って貨幣5を得ますが、そのうち2だけを支出してⅠgの資本家から商品材料になる金を買います。そのことによってⅠgのもとに2の貨幣が還流してきます。だから、この貨幣が「その前からすでに流通に入っていたもの」すなわち「自分で生産した金でではなく、現に国内にある貨幣の一部分」だというのは明らかです。

 議論になったのは、これに続く次の文章でした。

もしⅡがそれより他にはⅠから材料を買わなければ、Ⅰは自分の金を貨幣として流通に投ずることによってⅡから買う」(同前)

(Ⅰgのこと)がⅡから買うかどうかが云々されているのですが、ここではⅠ(g)のv部分が取り上げられているのだから、Ⅰが直接Ⅱから買うということはあり得ない、Ⅰが買うのは労働力商品であって、労賃として受け取ったⅠの労働者がⅡ(Ⅱc)から消費手段を買うことになる、だから「Ⅰは自分の金を貨幣として流通に投ずることによってⅡから買う」というのはマルクスの誤記だ、との発言がありました。

少し先の段落(第11段落)では「このvについて言えば(Ⅰ(g)5vのこと――引用者)、Ⅱから買わなければならないのは、彼ではなく彼の労働者である」(原書468頁)と書かれているように、Ⅰ(g)5v部分については、Ⅱから買うのはIgの資本家ではなく労働者です。Iの資本家が買うのは労働力であって、受けとった労賃(貨幣)で労働者がⅡから消費手段を買うのです。これが詳しい流れです。

これには、Iの資本家は間接的には(労働者を媒介にして)Ⅱから買っているとも言えるので、誤記とまでは言えないのではないか、との発言がありました。

こうしてIgのもとに貨幣2が還流してきますが、残りの貨幣3は戻ってきません。しかし、貨幣が戻ってこなくてもIgは困りません。翌年も、同量の労働力を買うことができます。彼は手もとに金生産物3を持っているからだというのです。

「金はどんな商品でも買うことができるからである。違う点は、ただ、ここではⅠが売り手として現われないでただ買い手としてのみ現われるということだけである。Ⅰの産金業者は自分の商品をいつでも売りさばくことができるのであり、彼らの商品はつねに直接に交換可能な形態にあるのである」(同前)

産金業以外の一般の商品所持者は自分の商品を販売しなければ貨幣を入手できません。必ず売り(商品の第1変態)が先行しなければなりません。これに対し産金業者は他の商品所持者とは異なり、自分の生産物でいきなり買いから始めることができます。というのは、彼らは「どんな商品でも買うことができる」金を生産しているのだから、それを貨幣(購買手段)として機能させることができるというのです。ただ、マルクスは産金業者を買い手だと見なす一方で、産金業者を売り手としても見なしています。彼らは、金を商品として「売りさばく」というのですから。買い手であると同時に売り手であるとは、言い換えると同じ金生産物が一方で貨幣であり、他方で商品であるということを意味します。これは一体どういうことなのでしょうか、矛盾しているように見えます。しかしマルクスは産金業者の金生産物を商品だとしながら、単なる商品ではなく「つねに直接に交換可能な形態にある」と規定しているのです。これは金商品は一般的等価物の状態にあること、貨幣の一歩手前にあることを意味します。したがって産金業者は自分の生産物(金)をいつでも貨幣に転化することができるのです。ここでは、産金業者の生産物はどうして貨幣に転化し得るのか、その理由は何かが論じられているように思われます。

 

3 ⅡcがⅡmに移されⅡmがⅡcに移されるとはどういうことなのか?

 

 マルクスは、産金業を紡績業(紡績業は一般的な産業を代表)と比較しています。紡績業者の場合は、彼らが自分の労働者に労賃として貨幣5を支払うとするなら、この貨幣5はまわり巡って紡績業者のもとに還流してきます。これに対して、産金業者の場合は、少し違ってきます。

 「Ⅰg(金生産者をこう呼ぶことにしよう)は5vを自分の労働者達にその前からすでに流通していた貨幣で前貸しする。労働者たちはこの貨幣を生活手段に支出する。しかし、この貨幣は5のうち2だけがⅡからⅠgに帰ってくる。しかし、Ⅰgは、あの紡績業者と全く同じように、再生産過程をまた新たに始めることができる。なぜならば、Ⅰgの労働者は金で5をⅠgに供給し、Ⅰgはそのうち2を売って3を金でもっており、したがって、ただそれを鋳貨にするか銀行券に換えるかしさえすれば、直接に、つまりそれ以上にⅡの媒介によることなしに、Ⅰgの全可変資本が再び貨幣形態でⅠgの手にあるわけだからである」(同前)

 Ⅰgには前貸しした5の貨幣のうち2しか還流してきませんが、それでもⅠgは3の金生産物を持っており、これを貨幣に転化して、還流してきた2と合わせれば5になり、これで翌年も同量の労働力を買うことができるという訳です。これは何度も見てきたことです。

 マルクスは「すでにこの年間再生産の最初の過程でも、現実的または可能的に流通に属する貨幣量(草稿は「潜勢的または可能的に流通に属する貨幣量」――引用者)に一つの変化が起きている」(同前)と述べています。どういう変化なのか、この段落を読んだあとで考えることにしましょう。

 「われわれの仮定では、Ⅱcは2v(Ⅰg)を材料として買い、3はⅠgによってやはり可変資本の貨幣形態としてⅡ(草稿は「Ⅰ」――引用者)のなかで投下されている。したがって、新たな金生産によって供給された貨幣量のうちから、3はⅡのなかにとどまっていて(草稿は「新たな金生産の前にあった貨幣量のうちから3がⅡにとどまっていて」――引用者)、Ⅰに還流していない。前提によればⅡは 金材料に対する自分の需要をすでに満たしている。3は蓄蔵金(「蓄蔵貨幣」と訳すべき――引用者)としてⅡの手にとどまっている。この3はⅡの不変資本の要素になることはできないのだから、さらにまた、Ⅱはすでに前から労働力を買うための十分な貨幣資本をもっていたのだから、さらにまた、摩滅要素を別とすれば、Ⅱcの一部分と交換されたこの追加の3gは、Ⅱcのなかでは何の機能を果たす必要もなく(それは、ただ、Ⅱc(1)がⅡc(2)よりも小さいという偶然の場合にそれだけ摩滅要素を補充するのに役立つことができるだけであろう)、しかも他方、ちょうど摩滅要素だけを別として、全商品生産物Ⅱcが生産手段Ⅰ(v+m)と交換されなければならないのだから、――そういうわけだから、この貨幣は全部ⅡcからⅡmに、今このⅡmが必要生活手段として存在するか奢侈手段として存在するかにかかわらず、移されなければならないのであって、その代わりにそれに相当する商品価値がⅡmからⅡcに移されなければならないのである。結果は剰余価値の一部分が蓄蔵貨幣として積み立てられるということである」(原書467-468頁)。

 第1文の「われわれの仮定では、Ⅱcは2v(Ⅰg)を材料として買い、3はⅠgによってやはり(ふたたび――新日本出版訳)可変資本の貨幣形態としてⅠ(草稿を採用――引用者)のなかで投下されている」ですが、後半部分の「投下されている」は誤解を招く言い回しのように感じられます。というのは、後半部分のⅠ(g)3vについては翌年の投下のことが言われているからです。草稿のこの部分は Wir haben angenommen dass Ⅱc - 2g(v)Ⅰ als Material gekauft, 3g(vⅠ) direct  innerhalb Ⅰ wieder angelegt als Geldform des variablen Capitals.で、これを直訳すると「われわれは、Ⅱcは2g(v)Ⅰを材料(原料)として買い、3g(vⅠ)は直接Ⅰのなかでふたたび可変資本の貨幣形態として投下されると仮定した」になります。これなら誤解は生じません。

 まずこの段落の内容を要約します(例外ケースを捨象します)。

 Ⅱcは2v(Ⅰg)の金を材料として買いますが、それ以上は買いません。するとⅠgが前貸しした手持ちの貨幣5のうち3はⅠに還流せずⅡのもとに蓄蔵貨幣としてとどまります。この貨幣3はもろもろの理由でⅡc部分として存在し得ません。それはⅡmに移されなければなりません。その代わり、それに相当する商品価値がⅡmからⅡcに移されなければなりません。その結果、剰余価値の一部分は蓄蔵貨幣として積み立てられることになります。

 貨幣3はⅡのc部分としてはそのままでは使い道がないことが言われています。それはⅡの不変資本部分として本来の生産手段に転換されなければなりません。それならこの3は貨幣形態になっているのだから、これで本来的生産手段を買えばいいのではないかと思われるかも知れません。しかしⅠのほうは生産手段を売って貨幣3を得てもⅡから消費手段を買うことができません。Ⅱcの3相当分の消費手段はⅠgの労働者がすでに買ってしまっているからです。この貨幣3は現物(消費手段)に置き換えられなければなりません。現物はⅡm部分に存在します。「この貨幣は全部ⅡcからⅡmに……移されなければならない」、「その代わりにそれに相当する商品価値がⅡmからⅡcに移されなければならない」(原書468頁)ことになります。Ⅱmに移された貨幣3は蓄蔵貨幣になって積み立てられることになります。

 再生産の第2年目も、前年と同様のことが繰り返されるなら、貨幣3Ⅱのなかで蓄蔵貨幣として遊離されて積み立てられることになります。その分だけ「Ⅱの剰余価値の一部分は消費手段に支出されないことに」(同前)なりますが、これは流通貨幣の供給は資本家が消費を削った剰余価値の一部から賄われることを意味します。

 

4 ⅠgmとⅠgc部分の転換はどうなるか?

 

 ではⅠgm部分の転換はどうなるでしょうか? マルクスはあっさり片付けています。

 「(Ⅰg)mについて言えば、Ⅰgはこの場合には常に買い手として現れることができる。Ⅰgは自分のmを金として(草稿は「貨幣として」――引用者)流通に投じ、その代わりに消費手段Ⅱcを引き出す。Ⅱではこの金は一部分は材料として消費され、したがって、生産資本Ⅱの不変成分cの現実の要素として機能する。そうならない限りでは、これもまたⅡmのうちの貨幣のままになっている部分として、貨幣蓄蔵の要素になる」(原書468-469頁)

 産金業以外のⅠ部門のm部分の転換とはかなり様相が異なります。第3節「両部門間の転換 Ⅰ(v+m)対Ⅱc」を見てください。そこではⅠmとⅡcとの転換のために資本家たちは生産物とは別に転換用の貨幣を持っていました。その貨幣がどちら一方から前貸しされて生産物の転換が行なわれました。ところが産金業においては、m部分の生産物を貨幣として機能させています(「Ⅰgは自分のmを金として(als Gold)流通に投じ(る)」とありますが、草稿を調べてみると「金として」は「貨幣として(als Geld)」になっていました。草稿の方が適当だと思います)。

 Ⅰgは5mを全部貨幣として支出してⅡcから消費手段を引き出します。これに対してⅡのほうはどうでしょうか。Ⅱは自分の商品と引き換えにⅠgから金を商品材料として入手します。Ⅱは貨幣を入手するために自らの生産物を手離しているのではありません。ⅡはⅠgと直接的生産物交換をしていることになります。Ⅰgのもとでは貨幣として機能した金ですが、Ⅱのもとでは商品材料用の金になるのです。産金業の金生産物は彼らのもとで貨幣として機能したあとⅡのもとで商品材料に変じています。ついでに考察したⅠgのv部分について触れるなら、3vの金生産物はⅠgの資本家の手に留まって何の機能も果たさず(蓄蔵貨幣になる?)、翌年貨幣として(金は鋳貨あるいは銀行券に換えられて)機能します。これらのことは、予め商品材料のため貨幣材料のためという形で金が生産されるのではないこと、また、金が貨幣になるにしても、貨幣そのものが生産されるのではなく貨幣になりうる材料が生産されることを教えていないでしょうか? そうは言うものの、これで納得とまでは行きません。しっかりと議論をする必要があります。一つの見方として参考にしてください。

 Ⅰgの資本家が消費手段を買った結果、Ⅱに金5が渡りますが、Ⅱがその一部だけしか商品材料にならないとするなら、残りの金はⅡのもとで蓄蔵貨幣の要素になります(マルクスは数字を挙げていません。例えば4が商品材料になるなら、残りの1は蓄蔵貨幣としてⅡmに移され、代わりにⅡmの現物1がⅡcに移されます。その結果、剰余価値の一部分が蓄蔵貨幣として積み立てられます)。この場合は蓄蔵貨幣がⅡのもとに形成されますが、Ⅰgのもとに形成される場合も考えられます(山田盛太郎の描いたケースでは、Ⅰgの4mが消費手段に転換し、残りの1mがそのままⅠgの手に留まり、それが蓄蔵貨幣を形成するようになっています)。

 Ⅰgc部分の転換については、「後に考察する」とありますが、実際にはなされていません。先の「20cは、Ⅰcの他の要素と交換されるべきもの」との文言を踏まえ、具体的に考察した例があります。やはり山田盛太郎のものを紹介しましょう。Ⅰgは金生産物20を貨幣として支出し、本来的Ⅰ部門(金生産部門以外のⅠ部門)から生産手段を入手します。他方、本来的Ⅰ部門は金生産物20のうち14だけしか商品材料(生産手段)にしないとすると6が残り、それが蓄蔵貨幣として積み立てられます。

 

5 単純再生産の場合でも貨幣蓄蔵は必然的に含まれる

 

 以上のことから、マルクスは、このⅠgcの考察を後回しにしたとしても「単純再生産の場合にも、……貨幣の積立てまたは貨幣蓄蔵は必然的に含まれているということ」が言える、そして「これは毎年新たに繰り返されるのだから、これによって、資本主義的生産を考察するときに出発点となる前提、すなわち、再生産の始まるときに商品転換に対応する量の貨幣手段が資本家階級ⅠとⅡの手にあるという前提は、説明がつくわけである。このような積立は、流通貨幣の摩滅によってなくなる金を差し引いても、なお行なわれるのである」(原書469頁)と結論づけています。

 年間の社会的総生産物の転換は貨幣を媒介にして行なわれるのですが、そのためには資本家階級は生産物のほかにこれを流通させるための貨幣を持っていなければなりません。この流通に必要な貨幣量は年々繰り返される貨幣蓄蔵によって供給されることになります。蓄蔵される貨幣の量は流通過程で摩滅する貨幣の量を補って余りあるというわけです。

 マルクスは金生産を組み込んだ再生産表式を示していませんが、それは、マルクスの一番の関心が、年々新たに生産された金がどのような経過を辿って蓄蔵貨幣に転化しそれが流通貨幣の供給源になるのか、というところにあったからのように思われます。どうでしょうか?

とはいえ、金生産を組み込んだ再生産表式がどういうものになるか興味あることです。実際、このような再生産表式を作成しようという試みが存在します。その代表的なものが資料として配布されました(山田盛太郎、越村信三郎、井村喜代子、神田敏英、川上則道などの諸氏の論考や所説)。マルクスの意図や観点に沿うものだとしているもの、マルクスの見地に批判的なものなど、様々です。そこで、次回は、本節の後半部分に移る前に、一定の時間をとってこれらの論文を取り上げて検討することになりました。

(雅)

【学習会の日程】

当面の学習会は次のとおりです。奮ってご参加ください。

◎第1巻学習会

【日時】12月7日(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第7章「剰余価値率」・第3節「シーニアの「最後の一時間」・第4節「剰余生産物」

◎第2期(第2巻実施中)第173回学習会

【日時】12月21日(土)午後6時から

【会場】豊島区西池袋第二区民集会室

【範囲】第20章「単純再生産」・第12節「貨幣材料の再生産」第3回目